色で見分ける多様な言語 多色字幕版『細い目』

山本博之 (2015.4.13)

映画という多声的なメディア

「翻訳して、でもロマンチックさは失わないままでね」

これは、『細い目』(原題Sepet、ヤスミン・アフマド監督、2005年)で、中国語で詩を書くジェイソンにオーキッドが言った言葉ですが、映画を含むすべての表現活動に関わる人に対するヤスミン監督のメッセージでもあるように思います。

外国語の映画が翻訳されるとき、吹き替えであっても字幕であっても、すべてのセリフが1つの言語に翻訳されます。それは観客がすべてのセリフを理解するために必要なことです。ただし、登場人物には映画の中で話されているすべてのセリフが理解できているわけではありません。映画は、登場人物のセリフだけでなく、独り言やささやき声、心の声、ナレーション、挿入歌などのさまざまな「声」が入っている多声的なメディアなので、観客にはわかっていても登場人物にはわかっていない「声」があります。登場人物のセリフに限っても、どの言葉を話すかによって、同じ場にいる登場人物のあいだでも意味がわかっている人とそうでない人が出てきます。マレーシアのように複数の言語を混ぜて話すことが日常的である社会を舞台にした映画であればなおさらです。

また、挿入曲の歌詞や引用は、その意味がわからなくても物語の筋の理解に大きな問題がないため、字幕に訳されないことも多いようですが、登場人物には聞こえていなくても監督などの製作者には意味がわかっている「声」なので、そこにも製作者のメッセージが込められているはずです。

本研究会のマレーシア映画文化研究ユニットでは、ヤスミン監督が表現しようとした作品世界をできるだけ立体的に表現するため、セリフを言語別に色分けして、さらに歌詞や引用の部分も字幕にした多色字幕版の『細い目』を上映しています。

映画字幕のお作法からは少しはみ出すところもあるかもしれませんが、型破りを恐れなかったヤスミン作品の字幕として、『細い目』の多声的な表現をお楽しみいただければと思います。

複数の言語を織り交ぜて話す

上の写真は、『細い目』で、オーキッドとジェイソンとキオンの3人が屋台で話をしている場面です。オーキッドと二人きりになりたかったジェイソンは、親友のキオンに「お袋さんに頼まれてた蚊取り線香を買いに行くんだろ」と厄介払いしようとして、それをきっかけにキオンとジェイソンは蚊取り線香の買い方について会話を重ねます。このとき2人は英語で話していますが、「蚊取り線香」の部分は広東語で「蚊香」(マンヒョン)と言っています。上の写真では、セリフ全体は白色(英語)で、「蚊取り線香」の部分だけ橙色(広東語)にしています。

それを聞いているオーキッドは、2人が何かを買うとか買わないとかいう話をしているのはわかっていますが、はじめ肝心の「マンヒョン」が何のことかわからない様子で、2人の会話を見守っています。そしてマンヒョンが何を指しているかがわかると、新しい言葉を覚えようとするかのように「マンヒョン、マンヒョン」とつぶやきます。

『細い目』でオーキッドは広東語が少しわかるという設定ですが、蚊取り線香をマンヒョンということは知らず、このときマンヒョンという言葉を覚えたということなのでしょう。これは映画だけのことではありません。実際にマレーシアの人たちは、外国語を勉強するとき、文法から勉強するのではなく、耳で聞いた言葉をその場で1つずつ覚えていく方法をとります。この場面でオーキッドが見せたのは、マレーシアの人たちが新しい言葉を身につけるときのとても一般的な行動です。

ところで、『細い目』の公開から約10年後、オーキッド役を演じたシャリファ・アマニさんに、何の前触れもなく「広東語で蚊取り線香のことを何て言うか知ってる?」と尋ねたところ、1、2秒考えてから「マンヒョン」とちゃんと答えました。この10年間、実生活でその言葉を使う機会はおそらくなかっただろうと思いますが、それでもちゃんと覚えていたんですね。

BGMに込められる心の声

上の写真は、『細い目』で、恋人のジェイソンと連絡が取れなくなったオーキッドがお父さんに車を出してもらって街じゅうを探している場面です。オーキッドがジェイソンを探している場面を通じて『月に寄せる歌』が流れています。とても雰囲気のある歌なので、歌詞の意味がわからなくても(あるいは、歌詞の意味がわからないからこそ)この場面を印象的にしています。

それでも、この歌詞の意味を理解することで、ヤスミン監督が込めようとした意図がいっそう感じられるように思います。上の写真の場面では、「月よ しばらくそこにいて」「教えて 愛しい人はどこ?」という歌詞が流れています。この歌詞だけでもオーキッドが恋人を探している心情がよく表れていますが、この歌が使われた歌劇「ルサルカ」のことを知っていると、オーキッドの気持ちがさらによくわかる気がします。森の中の湖に住む森の精ルサルカが人間の王子に恋をして、王子に裏切られたら二人とも水の底に沈むという条件で魔法で人間の姿に変えてもらい、王子と結婚しますが、王子に裏切られて・・・という物語です。

また、『タレンタイム』に至るヤスミン作品には月がしばしば出てきて象徴的な意味を持っていますが、それは『細い目』のときから織り込まれていたということもわかります。

この作品を一般的な劇場公開の作品として楽しむなら挿入歌の字幕は必要ないし、挿入歌まで字幕にすると画面に文字が多くなってむしろ鑑賞の妨げになるかもしれません。でも、ヤスミン監督のメッセージを立体的に表現する試みとして、本研究会の字幕では挿入歌や引用もなるべく字幕にしています。

言葉のエキストラに光を当てる

物語の筋とは直接関係ないために字幕にされない言葉もあります。上の写真は、『細い目』の続編の『グブラ』で、ティマが息子のシャリンと一緒に小学校から帰っている場面です。ティマとシャリンが交わすマレー語の会話の部分には字幕がなく、マレー語がわからない観客にはどんな話をしているのか知らされません。

何を話しているかわからなくても、まだ小さくてお母さんに甘えている息子と、そんな一人息子をとても大切にしている母親の様子は十分にわかります。母と子の2人で簡素な家に暮らしながらも互いに大切に思いあっていて、だからこそ物語の後半でそんな2人に過酷な試練が与えられることに心が動かされるのですが、この場面で実際に2人はどんな会話をしているのかを見てみましょう。

「今日は何を勉強したの?」という質問に続けて、
Ilmu hisab.
Ilmu hisab? Hisab susu?
Bukan, kira-kira.
Kira-kira kah, kura-kura?
Kira-kira.
Nanti ajar mak, ya?
とマレー語の会話が続いています。

数学のことをilmu hisabと言います。「hisab(数える)のilmu(術)」という意味ですが、hisabには「吸う」という意味もあるので、ティマは「お乳(susu)を吸う方法を勉強したの?」ととぼけて尋ねます。シャリンが答えたkiraは「数える」という意味ですが、2つ重ねると「算数」という意味にもなります。ilmu hisabがやや専門的な言い方であるのに対して、kira-kiraは子ども向けの言い方です。お母さんにはilmu hisabの意味がわからなかったのかなと思って、やさしい表現で言い換えています。それに対してティマはさらに「kira-kira? それともkura-kura?」と聞き返しています。kura-kuraは「亀」のことです。この会話を聞いていると、ティマはシャリンのことをお乳を吸う小さな子ども扱いしているけれど、シャリンは、少なくとも学校の勉強についてはお母さんに頼らず自分でしっかり勉強しているという頼もしい姿が浮かび上がります。

掛け言葉になっているので訳すのが難しく、そのためもあって英語字幕がつけられていないと思いますが、こんな訳はどうでしょうか。
「今日は何を勉強したの?」
「数術。」
「お乳を吸う術?」
「ううん、掛け算と割り算」
「カメさんとワニさん?」
「計算だよ」
「後で母さんに教えてね」

この研究会では、ガヤと呼ばれるアドリブなども含めて、物語の筋の理解に直接関係ないという意味で「エキストラ」のような言葉でも、なるべく意味がわかるような日本語字幕にするようにしています。機会があれば、『細い目』『グブラ』や他の作品もぜひご覧いただければと思います。